「お祭り」もできない世の中なんて…… | 偕楽園血圧日記

「お祭り」もできない世の中なんて……

 今日も暑いなぁ。
 真夏のように湿度が高くないので助かるが。


 朝日新聞が、

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 水晶宮、エッフェル塔、木造リング…万博は「建築の実験場」だった


(図表、朝日新聞デジタルより)

 大阪・関西万博の開幕まで、あと1年。会場となる夢洲では、建設工事が急ピッチで進む。過去の万博は、最先端の素材を使い、斬新なデザインに挑む、建築の実験場でもあった。今回も多くの試みがあるが、工期やコストなどの課題も残る。

■1970年大阪博で提唱 「メタボリズム」建築
 歴史的に、万博はユニークな建築に彩られてきた。建築家や技術者たちが、ときに国家と潤沢な資金に支えられ、最新技術を取り込みながら腕を競った。
 その起源は初の万博となった1851年のロンドン博、会場の「水晶宮」だ。大きな建物はれんが造りが当たり前だったこの時代に、ガラスと鉄骨でできた長さ約563メートル、幅約124メートル。温室の設計技術の進歩が背景にあった。
 89年のパリ博ではエッフェル塔が造られた。312メートルの高さは、当時世界最高の建築物の2倍近かった。93年のシカゴ博では、高さ約80メートルの大型観覧車が登場。いずれも鉄骨構造の技術の発展の産物だった。
 20世紀前半からは装飾を減らし、合理性や簡素さを追求する近代建築が流行した。その代表例が1929年バルセロナ博のドイツ館だ(一度は取り壊されたが80年代に復元)。
 70年の大阪博では、日本の建築家たちが、環境に合わせて建築も生物のように成長するべきだとする「メタボリズム」を提唱。タカラ館やエキスポタワーなど、追加、交換できるユニットを組み合わせた建築を試みた。また、天井を膜にした米国館は、空気を送り込んで膨らませるドーム建築の先駆けで、東京ドーム(88年開業)などに広がった。
 2000年代に入ると、コンピューターによる設計や模擬実験の技術が進歩。曲線やゆがみを強調したデザインが増えた。さらに、建材の環境性能や再利用も注目されるようになった。
 いい例が00年ハノーバー博の日本館だ。日本の坂茂(ばんしげる)とドイツのフライ・オットーが設計した建物を支えたのは、紙の管。解体後にリサイクルされた。
 大阪・関西博では、女性館を設計する永山祐子が、自身が手がけた21年ドバイ博・日本館の資材を再利用する。
 目玉の建築は、1周2キロの大屋根(リング)。デザインを監修する会場プロデューサーの藤本壮介は「多様な世界がつながりあう時代の象徴だ」と言う。ただ、閉幕後の使い道は、決まっていない。=敬称略(西村宏治)

■1メートルあたり1720万円の木造リング 再利用は
 会場は全長2キロに及ぶ木造の大屋根(リング)がぐるっと取り囲み、その中にパビリオンが並ぶ配置だ。リングは世界最大級の木造建築で、木組み構造の8割が組み上がり、9月中にも完成する見込みという。
 会場のデザインを担当したのは、国内外で活躍する建築家、藤本壮介氏(52)だ。トイレや休憩所など20施設は、コンペを勝ち抜いた若手建築家たちがデザインした。
 だが、建設に向けた課題も多い。
 参加国が自前で建設するパビリオンは、当初は60カ国による計56施設の予定だった。その後、自分たちで建てるのを断念する国も出た。約20カ国は施工業者が決まっていない。
 リングの建設費は344億円とされ、1メートルあたり1720万円かかる計算だ。「半年で壊すには高すぎる」との指摘があり、主催する日本国際博覧会協会は移築を含めた再利用を検討中だ。だが具体策は見えていない。
 1月には能登半島地震が発生。「復興を進めるため、万博は延期すべきだ」との議論も出た。万博の建築が本当によりよい未来につながるのか、厳しい視線も向けられている。(西村宏治)
 朝日新聞デジタル 4/14(日) 12:00

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 こんな記事を書いていた。

 ほうほう、少しぶれだしたかな?
 朝日新聞などのメディアにすれば、始まるまではさんざん貶して溜飲下げのアクセスを稼ぎ、始まったら持ち上げてアクセスを稼ぐというのが習い性になっているから。
 まあ、相変わらず「木造リングのコストがどうたら」とか、どこぞの政党に偏ったような「そんなことより能登のなんとか」と書いているのがしょうもないが。

 木造リングのコストというならば、これは日本の建築市場15兆円の中に「木造建築」を殴りこませるためのプレゼンテーション費用だと考えれば、決して無駄ではない。社会で働いたことのない人間や市場経済のわからない共産主義者には、絶対に理解できないだろうが
 もちろん、パビリオンの建築のためのリソースと震災被災地の復興のためのリソースは違うし、なにより「万博のために能登復興の予算やリソースが削られている」などということはないのだから、ここで能登を持ち出すやつはただ自分が叩きたいもののために震災被害を利用しているだけの「トラッシュ野郎」でしかない。
 リングの万博後の活用というならば、近くに造ることになっているMICEに移設しておけばいいのではないか? あれ、登れるようになっているのだろう?


 東京五輪の時にも、ただ「日本を貶したい。恥をかかせたい」というイデオロギーにかられた人間たちが「中止! 中止!」と大騒ぎした。

「万博にシンボリックな建物はつきもの」という記事を書いた朝日もまだ、

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(社説)万博まで1年 「なぜ今」見えないまま

 関心を集めるのは、外国パビリオンの建設の遅れや相次ぐ経費の膨張など、否定的な話題がもっぱらだ。その一方で、多額の公費をかけて55年ぶりに開催する意義は、いまだに見えてこない。
 大阪・関西万博の開幕まで1年を切った。会場となる大阪湾の人工島「夢洲(ゆめしま)」では、工事車両が行き交い、あちこちで建設作業が進む。

 19世紀に産業見本市として産声をあげた万博は、国威発揚の場に使われた。高度成長期終盤の1970年に開かれた大阪万博も例外ではない。その歩みが限界に直面するなか、博覧会国際事務局は94年に「地球的課題解決の場」と万博を位置づけた。
 今回の開催も、こうした流れの中にあるはずだ。だが、「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマは漠然としており、「イメージが湧かない」との声が強 い。ネットを通じて海外のモノや>情報が簡単に手に入る時代に、博覧会という形で、半年間限りのイベントを催すことへの疑問も少なくない。
 投じられる公費に厳しい視線が注がれるのは当然だ。会場建設費が当初の2倍近い2350億円に達したことへの批判に加え、344億円をかけて整備する1周2キロの木製建築物「大屋根」や、1カ所で最大2億円近いトイレなどが問題視されている。
(中略)
 夢洲は開発が進まず「負の遺産」と呼ばれていた。大阪維新の会が打ち出した起死回生策の一つが、万博だった。
 政府や大阪府市は、開催の意義として、海外からの観光客の増加や関連インフラの整備を強調する。これでは70年当時の発想から抜け出せていないと言わざるをえない。
 新しい時代にふさわしいメッセージを明確に発信し、国民と共有できるか。開催する側が果たすべき責任は重い。
 朝日新聞デジタル 2024年4月14日 5時00分

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 こんな社説を書いて高尚ぶるが、彼らの考えている「新しい時代にふさわしいメッセージ」とは、どういうものだろう?
70年当時の発想から抜け出せていないと言わざるをえない」という彼らの「2020年代の発想」というのはどういうものだろう?
 往来を否定し、インフラ整備などしなくていいといい。では 「なんでもかんでもバーチャルでやれ」というのだろうか? それで人間は「ウォーリー」に出てきた艦長たちのように「長椅子の上でゴロゴロしていればいい」とか?

 馬鹿らしい。
 たいていこういうことをいう人間は「もっといいことをお前が考えろ」というだけで、「これだ!」と自分で主張することはないのだから卑怯である。

 そもそも「観光客を増やす」「インフラを整備する」のどこが悪いのだろう。
 東京五輪はコロナもあってこの手の意見が幅を利かせてしまったおかげで、築地市場跡を抜ける道路はオリンピックに間に合わなかった。
(2019/02/01の記事、インフラ整備は「本当の市民」のためになる)で飲用した記事内で朝日新聞は「新国立には空調もない」と貶しているが、そもそもドーム式の競技場に「高い高い」とケチをつけて世論を一方方向に導き、政府を従わせた推進者は誰だったのか。
「外国のパビリオンが間に合わない」?
 リオオリンピックやドバイ万博の時に自分たちが配信したニュースを見直してみるがいい。外国人の感覚では「必死こいて間に合わせよう」などという日本的な考えはしない。

「なぜ今」などというものは、いつにやっても「なぜ今」といって文句をつけるのだ。
 都庁のプロジェクションマッピングでも「別のことに使え」というものが続々出てきた。
 こういう者たちの意見に従って動く社会というのは、刺激的なイベントもなにもないただひたすら平板なつまらないものになるだろう。灰色の服を着た笑顔のない人々が気力なくただ歩いていた昔のモスクワのような。


 本日のご隠居。

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 観光客もてなし25年、水戸の「黄門様」引退…「少しはお役に立てたかな」


(写真、読売新聞オンラインより。全国商工会議所観光振興大会で参加者を出迎える根岸さん(中央右)(2月21日、水戸市で))

 水戸市の「梅まつり」など様々なイベントで、黄門様に扮(ふん)して観光客をもてなしてきた会社役員の根岸孝雄さん(78)が今年2月、大役を退いた。ボランティアとして活動した約25年間を振り返り、「周りの協力があってやってこられた。少しは水戸のお役に立てたかな」と穏やかな表情で振り返る。(久保田夢)
「水戸に水戸黄門様がいる!」「写真撮ってもいいですか?」。2月21日に水戸市民会館で行われた全国商工会議所観光振興大会。根岸さん演じる黄門様と助さん、格さんのご一行の周りに、続々と参加者が駆け寄った。根岸さんにとって最後のおもてなしの機会だったが、ご一行から印籠を受け取った参加者といつも通り、写真をパチリ。新潟県から訪れた30歳代の女性は「貫禄があってびっくり。最高の思い出になった」と声を弾ませた。

 根岸さんらは1998年にボランティア団体「水戸黄門漫遊一座」を発足。水戸観光コンベンション協会などから出演オファーを受け、年30回ほど県内外の会場に足を運んできた。
「水戸市へどう人を呼び込もうか」。黄門様ご一行は根岸さんが所属していた水戸商工会議所の仲間との会話から生まれた。青年部のメンバーと話し合う中で、「日本三名園の一つ偕楽園はあるが、呼び水となる仕掛けがない」。もし水戸に黄門様がいて写真を撮れたら、思い出に残るし、喜んでもらえるのでは――。そんな考えの下、青年部4人で、ご一行を演じる一座を設立した。
 98年に黄門様の衣装を身につけて、水戸市内のイベント会場でデビュー。最初は人前に立つのが恥ずかしかった。「若すぎる」「もっと背が大きいはず」などとつっこみも飛んだ。
 それでも地道な活動で知名度は上がり、写真の希望者で行列ができるようになった。「ありがとう」と感謝の言葉をかけられ、時に手を合わせられることも。根岸さんは「観光客が楽しんでくれている瞬間を見るたびに黄門様をやっていてよかったと感じた」と振り返る。
 役作りにも励んだ。テレビ時代劇「水戸黄門」を視聴し、立ち振る舞いやセリフなども研究した。一座で日光江戸村(栃木県)に出かけ、ひげやカツラの付け方、着物の着方なども学んだ。
 県外にPRに行くときは、衣装に着替えて出発し、移動時間も黄門様役に努めた。格さん役の檜山洋美さん(65)は「貫禄と思いやりのある黄門様だった」と振り返る。
 一座は黄門様や助さん、格さんを演じたいという希望者、化粧や着物スタッフが増え、50人の大所帯に。黄門様役も増えたこともあり、根岸さんは後進に道を譲ろうと引退を決めた。
 今後一座はベテランが去り、若手スタッフらを中心に再出発する。根岸さんは「いつまでもおもてなしの心を大切に、黄門様ご一行を演じ続けてほしい」と頼もしい後輩にエールを送る。
 読売新聞オンライン 4/14(日) 21:03

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 ご隠居が隠居されるのか。

 市民会館ができた時、泉町のあたりを歩いていたら「ご隠居」がそのまま前から歩いてきて驚いた。「さすが水戸には黄門さまが普通に歩いておられる」と(笑)。
 あまりに突然だったので挨拶だけして写真を撮るのを忘れてしまったが。

 ご苦労様でした。


 二代目は、


 こちらの方だろうか?
 少し強面になっているのが「本放送」の代替わりっぽいな。

 ちなみに、残されている肖像画や像をいろいろ総合してみると、顔つきは「里美黄門」が光圀公に一番近いようだぞ。